小学生の頃、絵を描いている時、絵の具の色を見ていて疑問を感じたことがあった。
それは、自分が見ている色と同じ色を見ている他人は同じ色が見えているのだろうか。という疑問だった。 人がひとりひとり、色がどう見えているかを診断する方法なんて作れるのか?って ずっと思ってきたが、先日テレビ番組で、私が思ったことと同じことがテーマで放送されていた。 人ぞれぞれが見ている「色」が同じように見えているか、という疑問は多くの科学者の間でも長年の関心ごとであったらしい。 そして、結論から言うと「色」は、その人の感情や記憶などによって色の見え方は違っていることが分かったらしい。 ということは、目の前にある派手なマゼンタの「赤」を私が見ているとき、おんなじ色とはちょっと違った認識でその「色」をそれぞれの人が感じて見ているということになる。 誰もが美しいと思う、同じ場所で同じ時間で見ている夕焼けも、人それぞれにわずかに見えている色の感覚が違っている可能性が高いということだ。 目に入ってくる「色」の波長が違うわけではなく、「色」を認識しているその人の「脳」が「色」を理解する際に人それぞれ、わずかに捉えている「色」の違いがあるっていうことだ。 番組の中で一番興味を持ったことは、「色」の認識は、色の違いを表す「色についての名称」が沢山知っている人はらくさんの色を分けて認識でき「色についての名称」をあまり知らない人では判別できる色の数が少なくなるということだった。 要するに色の違いと名前を沢山知っている場合は沢山の色を認識できるということで、色の言葉の数と認識できる色の数が比例するという結論だった。 太古の昔、生物が誕生したばかりの時の単細胞生物がはじめて色を認識したのは生命を絶やさないために身についた能力の一つで、最初は空の「青い色」と夕焼けの「赤い色」だったそうだ。 最初に誕生した単細胞生物たちは太陽のエネルギーを利用して生命を活動させるためにこの2つの色を認識したらしい。「青」は自分たちに危害を加える紫外線が多いことを知覚し海の底の方に移動して身を守り、夕方の「赤」に変わる頃、紫外線が弱くなって太陽のエネルギーを受けに海面まで上昇するという説明だった。 色を認識する「言葉」を持っているわけではないが、「生きる」為に「色」を認識した始まりらしい。 その後、生命の継続は繁栄をもたらし様々な種の誕生につながり、その過程で様々な色を分類できるようになってきたらしい。 そういえば、イッセイミヤケ氏がデザイン関連の本を出され、確か、「日本の色」というようなタイトルだったと思うが、太古の日本も色の言葉が少ない時代に色の言葉が様々な状況を表す言葉に変っていったというような説明部分があって、「明るい」という言葉は「赤」「暗い」と言う言葉は「黒」として定着してきたそうだ。太古の日本人は色についてこの2つの色の認識から始まっているらしい。 その後、着物など様々な色を使う文明が発達して、様々な色の名前が生まれている。 色を分類する言葉の数と色の認識数が比例するという実験は、モニター画面に複数の四角い色が円形に並んでいて、1枚だけ色が違っているというものを見せて、どの1枚が色が違うかを見つけてもらう実験だった。 現代の文明と交わらず昔ながらの生活を続けている海外のある村の人々を対象に、これを実施すると、わずかな色の違いでも認識できる場合と、かなり違った色なのに認識できない色があった。これは違った色を表す色の名称が無かったことから、色が認識できないという事例として紹介されていた。 学者がきちんと研究していたことは全く知らなかったが、小さい頃からの疑問が溶けた。 同じ色を見ていても人はそれぞれわずかに違った色と認識しているということ。 私が鮮やかでとても綺麗だと思う色の赤は他人には同じように見えていない可能性があるってことだが、DNAに以上がなければほぼ同じ色が目には写っているハズである。 色の認識や、感じ方が人それぞれと言うことなのだ。 フツーに生活している時や、デザインワークでもそれほど気になることではないし、問題になることは殆ど無いけどね。 他人が見て、感じている色って自分とどう違って見えているのかを見ることはできないだろう。流石に。
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8月 2022
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